「おさきまっくろ」凍結のご挨拶2010年04月19日 17:10


 この10年をふりかえってみて、身近な出来事と記憶にとどめている出来事を箇条書きにしていったら、こんな年表ふうができあがった。

2000年 7月、黒 La Nigreco 創刊
2001年 9月、「9.11」
2001年10月、アフガニスタンへの爆撃
2002年 3月、桧森孝雄さん焼身死
2002年12月、『暴力論ノート 非暴力直接行動とは何か』発行
2003年 3月、イラクへの爆撃
2003年 8月、向井孝さん死去
2004年 4月、イラク人質事件(2回)、自己責任論の沸騰
2004年 6月、名古屋、サウンドデモ「discharge your anger!」
2004年10月、イラク人質事件(あるバックパッカーの死)、黙殺と嘲笑
2005年 2月、「非暴力直接行動」1984-1994(No.140-192)復刻
2005年 8月、『アナキストたち 〈無名〉の人びと』発行
2006年 4月、「自由と生存のメーデー2006」弾圧
2006年11月、『女掠屋リキさん伝』発行
2007年 5月、光市事件をめぐる、死刑(殺人)の待望
2008年10月、東京、麻生邸リアリティツアー弾圧
2008年10月、大阪、死刑廃止!! 殺すな!! 105人デモ
2009年 5月、裁判員制度開始
2010年 2月、「麻生邸リアリティツアー事件」国家賠償請求提訴

 この10年、いちばん印象に残った社会的な出来事は何か?
 そんなふうに聞かれたら、私はまっ先に、2004年のイラク人質事件と2007年の光市事件をめぐる「世間」の反応と云うだろう。
 少し前、「人質」となった女性の現在を映したドキュメント番組を見たからかもしれない。
 質問が自己責任論に及んだ時、彼女は、要するに、死ねってことでしょ? とこたえたのだった。
 2004年4月の生暖かいいやな空気が生々しくよみがえってくる。(当人たちからすれば)無関係な、見ず知らずの人びとが差し向ける得体の知れぬ憎しみ。あれは何だったのか?
 かれらを「自己責任」となじり、殺された青年を冷笑したひとと、それから3年後、「殺せ」と声をそろえたのは、たぶん同じだれかだろう。
 人垣の後ろから石をはじく無数の影。自分は正しい多数の側にあるという不遜な自信。倒れたひとの上に、よってたかって飛び乗る人がた。
 私が版画家ならぜひそれを刷り出してみたいところだけれど。

 2008年、そんな「世間」に向けて、石でも投げてみろと打って出たデモに、300人以上もの人たちが駆けつけてくれた。
 その多数が、このブログを見ての参加だったということを、ここには書き記しておくべきだろう。「おさきまっくろ」は、「世間」に対峙する具体的な行動の窓口に、たった一回にせよ、なったのだから。

 しかし、この間「おさきまっくろ」のことは忙しくてほとんど忘れていた。私もふうさんもこれまでのようなくらしはつづけることができなくなっている。
 まさしく「法律は折々圧政をやる。けれども道徳はのべつ幕なしだ」。そんな「世間」相手にいちいち文句を云い続けるのは、実にくたびれることだ。
 「のべつ幕なし」に対して「もうたくさん」というよりは、「あっしにはかかわりのねえこって」というセリフの方が、今はぴったりする。

 それでも、ブログがぜんぜん更新されないけど?……という声を時折聞いたし、このまま音沙汰なしというわけにもいかない。
 ここで「これにておしまい」の挨拶をさせていただくことにしました。
 時々のぞいてくれたり、デモで会ったみなさん。それから、リンクを張ってくれた仲間たち! どうもありがとう。またどっかでね。
中島雅一