小田実さんの死2007年07月30日 19:59

 今朝、選挙の結果はどないなったか思て、テレビをつけたらいきなり「小田実氏、癌で死亡」いう報せ。外はどしゃぶりの雨やんか。
 小田さんが癌で入院してはるいうのは知ってた……。
 小田さんは、痛みをこらえながら、夜中の選挙速報をきいてはったんやろか。民主党の圧倒的な勝利は夕べのうちにわかってたから、それをどんな思いで聞いてはったやろ。
 それにしても小田さんの今朝未明の死いうのは、なんとも暗い先行きのまえぶれような気がする。
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 わたしは小田さんと個人的な付き合いは全くなかったけど、小田実と聞くと、思い出せばいろんなことがあった……。
 高校一年のときや。学校のかえり、本屋で「何でも見てやろう」を偶然手にして、買ったんやった。それ以来小田実の熱烈なファンになった。雑誌でもなんでも、小田実という名を見つけると、まるで恋人の名をみつけたように胸がキューンとした。本も雑誌もみな買った。
 高校を卒業した夏、小田実にとうとう会いに行った。そのころ小田さんは東京代々木ゼミナールの舎監をしてはった。会うには会ってくれはったんやけど「女中はいらん」いわれてショックやったなあ。誰か「女中にしてくれ」いうファンレターでも書いてきてたんかしら。
 すっかりしょげて田舎に帰ってきたんやけど、小田実がそのころいうてた「加害者の論理・被害者の論理」いうのがずっと胸にひっかかったままで、わたしは、そのとき洋裁学校に通ってたんやけど、思いつめて、米子のいまは閑散としてしもた商店街にある銀行の前で、一人「ベトナム反戦」のビラを配りだしたんやった。
 それから、「ベトナムへ医療品を送ろう」いうて、一軒一軒知らない家にカンパを募ってまわってたとき知り合った是永さんとふたり「米子べ平連」を名乗り、「殺すな」いうビラを新聞折込にだしたり、商店街をデモしたり、鶴見俊輔さんにきてもろたり、脱走兵を匿ったり……。
 そして、とうとう小田実を講演によぶことができた。やっと念願がかなったというわけやった。
 それからしばらくして、私も小田実のいる東京に出ていったんやけど、山谷に通うようになったら小田さんへの恋心も冷めてしまって、本も買わんようになった。八〇年代になってから、「大の男」と「小の女」いう小田実を批判する文章を書いたこともあるな。それからはもう縁がないまま、いつのまにか長い長い年月がたってしもたんやけど、わたしが今につながる最初の道しるべに小田実がいたことはたしかや。
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 「べ平連」いうのは、組織やない。小田さんが代表のように言われたりしてるけど、実際は「会長も代表もおかない」「運動体」なんやった。何をすればいいでしょうか——なんてきいても「一人ひとり自分で出来ることを自分で考えてやる」いう答えしか返ってこん。それがべ平連や。
 それまでの運動いうのは〈組織〉の〈集団意志〉、つまり〈統一と団結〉で、なんでも上からの指令や命令で動くのが当たりまえのようにみな思ってたんや(まあ、いまもたいして変わってないようやけど)。学生運動でも労働運動でもみなそうや。
 いま、日本を動かしているこの政党政治なんてのは、その典型や。議員個人は〈党〉の〈党則〉に縛られ、違反すると処罰される。自由な個人の行動なんてもんは認められん。
 それに対して、べ平連は、〈個〉の自発性・主体性・恣意性——ようするに自分自身の内側から出てくる〈おもい〉をなにより大切にするということやねん。それはわたしの気持にスッと入ってきて、違和感ないもんやったし、全国各地に同じ思いをもったひとりベ平連、ふたりべ平連がそれこそ地から湧き出すようにあっちにもこっちにも出現したんやった。
 そんな個々のおもいおもいのばらばらでは、とても敵に勝つなんてことはでけへん——いう考え方も依然として強くあるわけやけど、わたしが最初にであった、この多様でアナーキーな個別の運動の方向の先にしか未来はないやろ。
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 しかし、いま、運動いうもんがすっかり衰退してしもて小泉・安倍とつづく一党独裁で次から次に悪法が通ってしまった。国民投票法もできてしまった。しかも世間は、それを知ってか知らぬか、それほど問題にもしてへんようやし、こんどの選挙の結果をみても、憲法はまるで争点になってない。たしかに自民惨敗で安倍政権は窮地やけど、民主党も本質的には自民党とそれほど違わん。小田さんは「憲法九条の会」の呼びかけ人やったけど、べ平連時代にこんな状況がくることを予想できたやろか。
 間接民主主義制度いうのは文字通り、ひとびとが何かの思いや必要を実現しようとするとき、ひとびとはそれを直接表現することはできない。選挙制度によって、たった一票の札を箱にいれることで、自分の思いや運命までもよくも知らない他人に〈委ね〉〈まかして〉、国会で変わりに議論? してもらう制度や。
 そして、そこで〈多数決〉によって決まったものは直ちに法制化され、戦争でもなんでもできる仕組みになってる。空恐ろしい制度やんか。わたしはそんなことに賛成してへんいうても、すでに遅しや。
 そういう儀式を承認する日に小田実は亡くなった。
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 小田さんは七五歳になってはった。最後までべ平連の運動スタイルを身につけてはったと思う。べ平連の〈個〉からの運動スタイルを身につけとったら、わたしらは、いつでもどこでも〈一から〉出発できるんや。
 そのあちこちの個々ばらばらな自由なつながりが、いつか大きな流れになる……いや、ならんでも、政府が「これが民主主義や」といおうが、「法律で決まったんやから」と押し付けようが、「それが国民の総意やと」攻め立てようが、わたしらは、戦争する政府・国家には従わない〈自由〉があるんや。
 べ平連は、わたしの青春やった。「運動いうのは自分の思いでするもんや」いうおいちゃんに出会うことで、わたしのその後は今に続いてるんやけど、高校生のとき、偶然、小田実の本に出会うことがなかったら、わたしはどのような人生を歩いたんやろ……と思うと、小田実というひとの存在と名をわたしはこれからも決して忘れはせえへん。(風)

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