死に神たち2008年08月16日 15:15

 前法相鳩山邦夫が、「死に神」とよばれ、憤ってみせたことは記憶に新しい。
 13人の執行命令を出しながら、これは「殺人などということは断じてありえない」という記事も読んだ(「死刑は粛々と執行するのが大切」『週刊朝日』5/2号)。彼にとって、処刑は、殺人を意味しない。この倒錯こそ、「死に神」とよばれるにふさわしい。
 彼は、処刑時、刑務官がとざしていた青いカーテンを開けさせた。その理由を問われて、こう説明する。
 「『ちゃんと見ろ』ということです」(「週刊朝日」同)
 バタンコの落ちたあと、およそ20分といわれる吊された体のふるえ。その下で、誰が、何を見るのか。まだあたたかい体をどうして受け止めるのか。
 「斎戒沐浴」した彼がそこにいたとしても、おそらく何も見えない。見えてはならない。

 現法相保岡興治が昨日、靖国神社に参拝したという。
 「死に神」ということばが思い起こされてならなかった。
 戦争は、敵国民を殺すものだ。その手段として、結果として、じつは、自国民をこそ、大量殺戮に陥れながら(ヴェイユが見切ったとおり——)。
 「国民」を殺戮に動員しながら、死後もなお忠誠を誓わせ、玉砂利の向こうに永久に鎖につなぐやしろ。魂を魂として放つのではなく。
 その死を、「特別な死」とすることで、自他に対する大量殺戮動員の責からのがれ続けているのはだれか? 

 死刑は、殺人ではない。
 戦争に動員し、殺させ、殺されても、それは殺人ではない。
 ——「殺し」を「殺し」といわせないのが、「死に神」たちの巧まれたやり方だ。
 そうやって、どんな「犯罪者」よりも、桁違いに残忍かつ、合法的に「殺し」をしてきた。いまも!
 だから私たちはかきけされようが叫ぶほかない。
 もうこれ以上、ひとりも「殺すな!!」
(MN)

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