クロポトキンのバクーニン観2007年05月30日 19:38

 この2年間、時間をみつけては向井さんの文章を入力しつづけている。「IOM通信」は犬山で、その他は東京で。どうするかは後で決めることにして。
 「クロハタ」(博多の副島辰巳さんが発行責任者だったころ)の巨大な合本の、小さくてかすれた活字をじっと眺めては1行うち、という作業をしながら、いまは1950年代ばの空気にふれている。
 昨晩うったのは、「バクーニン・その生涯」(「クロハタ」8号、1956.7.3)。向井さんにはアナキズム論、とくに欧米の輸入アナキズムについての理論的な言及はほとんどない。バクーニンの特集をするから、その生涯を簡潔にまとめてくれ、くらいの依頼にこたえて書いたものだろう。
 前置きがながくなったけれど、同稿によると今日5月30日はバクーニンの誕生日らしい。きまぐれに一部を掲載する。クロポトキン「一革命家の思い出」から向井さんが抄出した箇所と思う。(MN)
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クロポトキンのバクーニン観

 私が初めてスイスに行ったとき、バクーニンはロカルノにいた。それから四年たって私が再びスイスに行ったとき、彼はもう死んでいた。だが私は、そこで、やはり今尚生きている彼に出逢ったのだった。
 バクーニンはジュラの友人達を助けて、彼等の思想をより明らかにし、炎えたたせ、未来への希望を大きくした。彼はジュラ同盟にその力強い燃えるような彼の魂を吹き込んだ。
 ギョオムたちがジュラの山地ロックルで小さな新聞を出し、その思想のしらべを高らかに響かせると、彼は直ちにロックルにゆき、その新しい友人達を無政府主義の方向へ正しく導き、同志としての熱情をそそいだ。そして彼は、他日そこからヨーロッパ各地に拡がっていった無政府主義運動の中心をつくり出したのだった。
 ミカエル・バクーニンという名はジュラの人たちの間にしばしば繰り返された。ただみんなが仲間としてほんとうに愛した友人の名としてであった。
 無政府主義者や自由連合主義者の会合で、私はかつて「バクーニンがこう云った」とか「バクーニンはこう思っていた」とか云うことがその議論の結末をつけるために云われたことをきいたことがなかった。バクーニンの文章や言葉や行為は、政党では常である厳守すべきおきてではなかった。バクーニンはジュラの人たちに大きな影響をのこしていたが、その人たちは、自分自身の意見をしっかりともちそれを強め高めてゆくことによって、それをうけついでいたのである。

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