あけまして、おさきまっくろ2007年01月01日 08:36

Felix Vallotton 'La Mer', Colour woodcut, 1893

 年初の挨拶がわりに、なだいなださんがちょうど30年前に書かれた文章を紹介します。(最初のさわりだけやけど)
 新しい年をむかえて、噛み締めてみるのにふさわしい文章とおもいます。
 2007年1月1日
 ウリ‐ジャパン(戦争抵抗者インター日本部)

——アナーキストは、なにを求めているのか。
 アナーキストの求めるものがなにかを知れば、多くの人は、おそらく笑いだすだろう。いわゆる国家という枠のなくなった社会、法律などというもののない社会、そして指導者などのいない社会をつくりたいというのだから。
 なにしろ、歴史の中をくまなくさがしても見つからないような社会だから、目の前にあるものしか信じられない現実家からは、それは人間の空想的産物さ、と片付けられても仕方がない。
 とはいえ、歴史はじまって以来、そのような社会がずっと民衆によって夢み続けられてきたのも、現実なのである。
 「そんなものは幻想さ」という人があるなら、アナーキストは理想社会の幻想を追うものと呼んでもよろしかろうと思う。しかし、何千年ものあいだ、圧政のもとにおかれた民衆が、圧政の裏返しとして持ち続けた幻想なのだし、今後も圧政の続く限り、この幻想が消え去ることはないだろう。逆に、圧政と感じられるものを、少しずつでも改めていけば、この幻想も薄らいでいくにちがいない。だが、同時に、社会はこの幻想に類似したものになるのだ。幻想は薄らぎながら、実像化するのである。
 もちろん、そのような社会を実現するためには、乗り越えられねばならぬ、あまりにも多くの障害がありすぎるだろうことも、わかっている。しかも、その障害のいくつかは、人間の存在そのものの内部にひそんでいるので、外部的な障害を全部うちこわしただけでは、道を半分も歩んだことにならない。人間一人一人が、自己の内部にひそむ障害を克服しない限り、その理想を実現することは不可能だろう。しかも、人間はあまりにも自己を知らない。当然、自己の内部の、いったい何を克服すべきかも、つかんでいないのだ。これでは、理想が実現できる日が、いつになったら来るのかも、見当がつかない。
 だが、それにもかかわらず、まだ理想の実現をあきらめない人間、はたから見れば、どうしようもない、あきらめの悪い楽天主義の人間が、ぼくを含めたアナーキストなのである。
 ぼく自身は、この理想社会を実現するのは、ほとんど不可能なことだと思っている。それが無限の彼方にあるとは思わないが、すくなくとも北極星ほどの遠い彼方にあるのではないか、という気がしている。だが、この理想はすてない。なぜ、すてないか。理想を到達目標とすることは、現実的でないにしても、それを導きの星として、ことあるごとに仰いで見ることは、道に迷わぬためには、必要なことだからだ。
 はじめっから、実現しそうもないから、と努力しないでいては、何がこの理想の実現を阻むものか、知ることもできない。ぼくはそれを知りたい。そのことも、理想を棄てない理由である。知ることで、いよいよ、絶望的な状況の認識を、ひとつひとつ深めることになるかも知れない。にもかかわらず、その道を歩もうとする。それが、アナーキストを名乗るものの、不幸な矛盾のひとつである。

*なだいなだ「アナーキストの自問自答」(「思想の科学」1977.11臨時増刊号、思想の科学社)より