もし疑われるのが自分やったら……2007年02月07日 13:05

周防正行監督作品「それでもボクはやってない」チラシ表面

 これは、これからご近所さんにまくビラの文面。2月2日の文章と重なるところもあるけど、ここにも載せときます。
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 「Shall we ダンス?」の監督、周防正行さんの新作「それでもボクはやってない」を観た。客席からしばらく立ち上がれんくらい唸ってしまった。
 この映画はチカンに間違われた青年が必死に無実を訴えるんやけど、警察も検察もはじめは弁護士さえも、そして最後の頼みとする裁判官も、逮捕・起訴されたものは「犯人」としてしかみてくれず、有罪判決を受けてしまう話なんや。ある新聞記事から興味をもって周防監督がいろんな事件を取材していくんやけど、事件のことより、裁判そのものにすごい疑問が湧いてきて、「こんなに酷い現実を知っちゃたんだから、このまま黙って知らん顔して、なかったことにしてしまうわけには」いかへんと「初めて使命感で撮った映画」なんやて。
 ついこのまえも暴行傷害罪で二年九ヶ月も監獄にいれられて、実はやってなかったいうことが今になってわかった事件が報道されてたけど、冤罪いうのはめったにないことやなくて、ほんまはけっこうあることなんやないやろか——

 刑事事件で起訴された場合、裁判での有罪率は99.9%なんやてね。大きい事件から小さい事件、世間から注目されてる事件ほとんど知られていない事件とさまざまやけど、この有罪率百パーセント近くいうのはちょっと異常や。裁判は神聖なもんで間違いはないもんや、となんとなく信じられてるけど、裁判官もお役人なんや。出世を願う一人のサラリーマンなんや。なにしろ「無罪」の判決をだした裁判官いうのは決して出世しないどころか、左遷されたりするらしい。「無罪」を出すいうことは、警察・検察の権威にドロをぬるいうことなんやな。
 建て前では、司法の独立いうことになってるけど、実際は警察・検察と同じ国家の威信を体現するものやから、厳正中立に、「犯人」とされる人間が、ひょっとして「無実」かもしれへんいうて調べることより、国家の体面の方が優先するし、自分の出世の方が優先するんや。考えてみれば裁判所だけ特別いうことはないはずや。警察も検察も裁判所もみなお役所仕事なんやろ。「忙しい」を理由につい仕事が雑になるし、その結果が間違っても、絶対に自分らの過ちを認めへん。それはもうみんなよう知ってることやんか。
 けっきょく、有罪率99.9%いう数字は自分たちのずさんな仕事の結果やのに、その結果が「真実」として先行し、逮捕・起訴されたものはみなまちがいなく「犯人」として、疑うということ——これも仕事のはずや——をまずしない。

 人が人を裁いてきた歴史の中から生まれた法格言に「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」ということばがあるそうや。映画の最後の画面にそのことばが大きく映し出されたんやけど、毎日毎日テレビで流される犯罪報道を観てると、「疑わしきは罰せず」よりも、ついつい「疑わしきはまず捕まえてぇ」という気分になってくる。
 でも、疑われるのがこの自分やったら……
 わたしらは、警察官でもないし検察官でもない。まして裁判官でもないんや。いつでも、ひっとしたら間違われて疑われる方におるんやないやろか……。
2007.2.7
WRI INUYAMA
水田ふう

*「おさきまっくろ」犬山版 No.3 より